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第211話 標本室の聖女①

作者: 花柳響
last update publish date: 2026-06-22 06:00:39

 パチン、と薄いゴムが弾ける無機質な音が、影の消し去られた空間に二度、低く反響した。

 ヴィクトルは外した手袋をスチール製のトレイへと無造作に落とすと、真っ白なスーツの襟元を長い指先で軽く整え、長机からゆっくりと歩み出てきた。大理石の床を叩く靴音は驚くほど小さく、空気の層を踏みしめているかみたいに均一なリズムを刻んでいる。

「わざわざこのような地下の果てまで足を運んでいただけるとは。有栖川の息女の決断力には、敬意を表せざるを得ません」

 眼鏡の奥にある薄青い眼球が、値踏みするようにこちらの顔、首筋、そしてウールコートのポケットへと滑る。

「挨拶はそれくらいでいいよ、白スーツの男」

 白亜が一歩、前に出た。長い銀髪が面発光の照明を反射して白く輝き、その細い指先は、いつでも動けるようにコートのポケットの縁に引っ掛けられている。

「あんたのその慇懃無礼な喋り方、聞いてるだけで頭の奥がツンとしてくる。用があるのはお姉さんでしょ。早く目的のものを出しなよ」

「おや、白竜の娘さんは随分と気が短いようだ。せっかく上質な紅茶を
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     普通の未来。 有栖川の屋敷の、あの隙間風の入る暗い屋根裏部屋で、冷たい床を磨きながら、ずっと夢見ていた景色。 誰からも怒鳴られず、誰の顔色を窺うこともなく、ただ小さな町で、近所の子供たちに大好きなピアノの音を教えながら、静かに、穏やかに年を重ねていく。そんな、ありふれた温かい日常の風景。 ヴィクトルの言葉は、冷え切った脳髄の奥底へと、甘い蜜のように染み込んできた。 もし、私からこの厄介な力がなくなれば。 黎はもう、私に触れる恐怖に怯えて、暗い部屋の片隅で手を震わせる必要はなくなる。あの痛ましい、気管が詰まったような苦しげな呼吸からも、永久に解放される。あのペントハウスの、空っぽになった鳥籠の扉が、もう一度、今度は本当の家として開くかもしれない。その未来に、一瞬だけ心が揺れた。逃げたいわけではないのに、もう痛くない場所へ行きたいと思ってしまった自分を、すぐには責めきれなかった。 けれど。 視線が、大理石の床の上に広がる、赤黒い液体の染みへと引き寄せられた。 ◇「が……はっ、げほ、ォッ……!」 部屋の入り口、崩れ落ちた天井の残骸の真ん中で、漆黒のウールコートを纏った巨体が、再び激しくむせ返った。 黎は床に両手を突き、前傾した姿勢のまま、濁った血を何度も床へと吐き出している。長い銀髪は泥と汗でべったりと顔に張り付き、その隙間から覗く肌は、無菌室に充満する濃縮瘴気によって、みるみるうちに青黒く変色していく。 逞しい腕の筋肉は、見えない強烈なシールドの圧力に対抗しようとして、破れそうなほどの密度で隆起し、硬い革靴の先で大理石の床をガリガリと掻きむしっている。 一センチメートル、前に進むたびに、黎の首筋の黒い鱗が、ミシリ、ミシリと不吉な音を立てて引き千切られ、そこから生温かい血が滴り落ちていく。「黎様……っ」 喉から、押し殺したような声が漏れる。 これほどまでに傷つき、ボロボロになりながらも、あの人の黄金色の瞳は、一度としてこちらから視線を外そうとはしなかった。 針のように細く割

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     大理石の床を踏み締める靴の裏で、砕け散ったプラスチックの微細な破片がジャリッと硬い音を立てて潰れた。 膝の関節を一本の棒のように突っ張り、どうにか上半身を垂直に保つ。ウールコートの重みが、今の水分を失いかけた身体には濡れた砂袋みたいに重くのしかかってくる。 肺の奥に吸い込まれる空気は、どこまでも軽くて冷たい。埃の一粒すら存在しない完璧な無菌状態のはずなのに、肺胞の隅々にまで冷たいガラスの針を突き刺されているかのような、異質な痛みが呼吸のたびに肺の底を走った。 ピッ、ピッ、ピッ、という室内の警告音は、次第に間隔を狭め、ついには耳の奥を劈くような連続した高音へと変わっていく。「素晴らしい。有栖川の地下牢で観測した数値を、すでに二倍以上も上回っている。あなたの魂の容量は、私のシミュレーションを遥かに超えて、今なお外側へと膨張を続けている」 ヴィクトルは制御パネルの前に直立したまま、眼鏡の奥の薄青い瞳を限界まで見開いていた。完璧な左右対称の微笑みは、照明の強烈な白さを浴びて、大理石の彫刻のように冷たく張り付いている。 長い指先がタッチパネルの表面を滑らかに滑るたびに、部屋の中央にある金属製の装置が、ウィィィィンという鼓膜を直接引っ掻くような駆動音を一段と高く鳴り響かせた。 透明なガラス管を流れる気泡の速度が跳ね上がり、床から伝わる細かな振動が、足の裏から太もも、そして腰の骨へと、じりじりと痺れるような感覚を伝えてくる。 右手首の皮膚の下。 薄紫色に変色して浮かび上がっていたあの管の網の目が、装置の回転に呼応するようにして、熱を持ったようにドクドクと不気味な脈動を刻み始めていた。指先から爪の先にかけて、急速に感覚が消え失せ、冷たい大理石の白さの中に、自分の手のひらだけが血の気を失って浮いているように見える。 身体の内側から、温かい熱の塊がストローで吸い上げられ、あの金属の箱の中へと強制的に注ぎ込まれていくような、強烈な枯渇感。「瀬理亜さん、そのままそこにあるシートへ歩きなさい。あなたのその素晴らしい波形を、安定した触媒へと定着させるのです」 ヴィクトルは、長机の上に置かれていた古い祖母の手記を片手で閉じ、こちらへ向かって真っ直

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